毎月第二火曜日は雷門一之宮商店会の定例会でした。
私は堅苦しいのが何より苦手なもので、催事の打ち合わせや会議などは最小限にして、なにより会員相互を知ることと、先輩商店街を知ることに腐心してきました。そしてもう一点「地域を知ること」の旗を揚げることにしました。
ご存知のように当商店街は歴史ある浅草の中でも、駒形堂と縁の深い土地柄です。
約1400年前、一寸八分の観音様が墨田川(浅草浦)から示現された場所が駒形堂近辺であり、観音様を屋敷に祀られた土地の長、土師中知の屋敷跡が当商店街の位置する場所であるからです。
そのことは、商店会内の歴史研究会で研究中です。
関東大震災までは商店会内の地先に土師、桧前兄弟、つまり三社のお墓らしき牌も確認されています。
そんな歴史を追いかけているうちに、商店会が属している東部町会、明治時代までは材木町、並木町、茶屋町と呼ばれたこの地域の生の情報を持っていらっしゃる先輩方からお聴きしておきたいと一念発起となったわけです。
で、今回は歌舞伎などのお扇子を製作されていらっしゃる東扇堂の荒井さん(91)にお願いしました。
快く引き受けて下さり、子供時代からの町内の様子や逸話などをお話いただける機会を与えられました。
町内の歴史を聴く会「長老に聞く」「古老に聞く」だのと表題は考えたのですが、若々しい大先輩に古老では失礼だなぁ・・・となったり、歴史研究をしている若い方もいらっしゃるだろうし・・・などと考えに考えて(まあ、そんなに考えてはいないのですが・・・)、講師になっていただきやすいの表題となりました。
自己紹介から始まりました。
御年九一歳。若いです!ボーイスカウトの団長さんもやっていらっしゃったことも若い秘訣でしょうか・・・

東扇堂は、ご本人で四代目200年以上続く扇子職人のお店です。
受講者一同ホ~~~でした。
江戸の絵図ではありませんでしたが(隅田川に架かる吾妻橋はまだ狭い)、赤く塗りつぶされたところが東扇堂です。

昔の三社祭りの本社神輿はこちらの前を通り、一服したのだそうです。駒形堂前で三基の神輿が集まり、それぞれバラバラに分かれていったのだそうです。
また、材木町、並木町、茶屋町とそれぞれが町会として独自性があるために、一体感はあまりなかったんだよねと、お互い交流もなかったしと。
へ~という反応でした。
茶屋町は7軒しかお店がなかったのに、町内神輿を持っていたということで初耳でした。
一同、へ~~でした。
東扇堂側と電車道を反対にして友人とキャッチボールをした話し。
市電が来ると中断したんだよ。だそうです。
それこそ今なら、即交番行きでしょうね。そんなのんびりした空気が漂ってきました。
戦争中はどうだったのか、東京大空襲では扇子の型を持って、火の粉を避けながら吾妻橋を渡り逃げた話し。
20年についに召集されながらも命からがら寸でのところで復員できた話し。
戦後復員し焼け落ちた元の場所にいち早く家を建てた話し。
などなど脱線しながらも戦中戦後の浅草の様子に興味を持って聞き入っていました。
濃い赤塗りの場所が東扇堂。ピンク塗りの所が雷門一之宮商店会一軒一軒誰それの家があった、お店があったと、お話して下さり、受講していた商店会員も引きづられるように、昔の雷門を諳んじながら質問の応酬でありました。
浅草剣戟の代表といえば浅香光代さんですが、そのご自宅が私たちの商店会の通りにあったというのも初耳。
出世稲荷というお稲荷さんがあり(今はありません)、ご縁日には結構賑やかだったということも生きた歴史だと思いました。
「時間と体力の続く限り、どんな質問にもお答えしますよ」という感じで講師が受けてくださったので、楽しい中にも貴重な勉強会だったと思いました。
また、第二回目を是非ともやりたいなぁ。正直思わされた次第です。
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